禅味蕎麦 宮本
ちょっと迷って、宮本に着いた。
たて屋左に入り口がある。暖簾をくぐると、歩いてきて少し汗ばんだ体に、ひんやりとした空気が気持ち良く感じる。
入ってすぐ土間になっている。昔の民家を思わして、懐かしい雰囲気を醸し出している。入って直ぐに、女将さんに「どうぞこちらへ。」との案内に従って、左手奥の間に通される。
こちらの部屋も、太い曲がった梁などで天井が支えられており、古民家の作りに感心させられる。
量が少ないと聞いていたので、失礼かとは思ったが「お蕎麦の量は?。」と尋ねる。女将さん曰く。「三枚くらいは、すっと。」
まずは、せいろを一枚と汁なしで追加を一枚をお願いした。量は確かに少ないが、盛られた蕎麦は細く瑞々しく美しい。
池の端藪で修行した兄弟弟子の竹やぶ阿部氏の言葉を思い出した。「盛り付けは、三箸半。」箸でつまんで、三回半で食べる。そばがおやつの時代の話かと思っていたが、ここ宮本ではこの流儀に従っていた。
蕎麦二枚をあっという間に、平らげて、今度は、手挽きの田舎を頼んだ。この日はそれほど込んでいなかったので、直ぐにそばが出てきた。
笊に、すっと盛られた姿がなんともいえない。せいろと同じく細打ちで、玄から丁寧に挽いたのであろうそば殻が浮かぶ見事な蕎麦である。
これほどの蕎麦を見たことが無い。太野祺郎著「蕎麦の薀蓄」に蕎麦の禅味、俳味の話が載っていたが、まさしくこれだ。
料理は舌で味わうだけでなく、盛り付けや色そして器など、見ても味わう。この建物の醸す雰囲気にひったりのそばであった。
そばとは単純なのもである。そば粉に加水をし、練って、板状になったものを切る。この単純な蕎麦に、これほどまでの思いが込められているとは。
頭が下がった。
もう一つの驚きは、そばつゆである。江戸前の辛口。これが藪系の汁。浅草 並木にしても上野藪、池の端いずれも、辛口である。
宮本の汁はこのいずれとも違う。もちろん、鰹節出汁の臭さや醤油臭さは微塵も無い。
この汁に、田舎をほんのちょっとつけて、手繰るとなんともいえないものだ。私なども、そばの香りを気にする一人であるが、この蕎麦を食べるとそんな意識はどこかに行ってしまう。それほど完成度が高い。
蕎麦湯を注いで飲むとよくわかる。宮本の蕎麦湯は澄んでいる。最近は、どろっとした蕎麦湯が好まれるようだが、これでは、本当の汁のよしあしはわからない。
蕎麦を茹で上げた湯をそのまま用いるのが宮本のやり方であった。
宮本は店内撮影が禁止であったのが、支払いをするときに判った。「蕎麦の写真を撮ってしまいました。」というと、「今度だけということで。」とにこっと笑った女将さんに、頭を下げて帰途についた。
このブログを書きながら、もう一度尋ねていこう。できれは、一度宮本氏の蕎麦に関する思いなどを聞きたいと思う。
最近のコメント